LOGIN翌朝。
彩花はいつもより早く出社した。
誰もいない秘書室。
静かな空気。
それが少しだけ心地良かった。
最近は人の視線が怖い。
誰も何も言わないのに、
何かを言われている気がする。彩花はデスクへ座り、
スケジュールを確認する。今日も予定はぎっしりだった。
監査対応。
会議調整。
来客対応。
以前と変わらない仕事量。
なのに、前より何倍も疲れる。
そのとき。
社長室のドアが開いた。
弘人だった。
彩花は反射的に立ち上がる。
「おはようございます」
弘人は短く頷いた。
「おはよう」
それだけ。
以前なら、
もう少し言葉があった気がする。仕事の話でも。
軽い雑談でも。
けれど弘人はそのまま社長室へ入っていく
天野悠が麻衣子に出会ったのは、まだ新人モデルだった頃だ。右も左も分からず、自分を騙そうとするような人間がいることすら知らなかった。先輩から困っていると言われて、何度も金を貸した。挙句の果てには借金までして金を用意した。その頃の天野は、自分の人生を自分で選ぶ方法すら知らなかった。そんな時、麻衣子が現れた。当時すでにMayとして知られていた彼女は、偶然その事情を知ったらしい。天野からすれば救いの手だった。けれど麻衣子にとっては、ただ不愉快な男を片付けただけだったのかもしれない。「ありえないわ」そう言った彼女の顔を、天野は今でも覚えている。怒っていた。自分のために。誰かが自分のために本気で怒ってくれることが、あんなにも心強いものだと、その時初めて知った。麻衣子は早かった。自分の力を使い、先輩の悪質なやり口を表に出した。それだけではない。天野が背負わされていた借金まで肩代わりしてくれた。そのときの彼女は、軽い口調で、何でもないことのように言っていた。まるでその程度の金額、大したことではないように。だが天野にとっては違った。人生を救われた。文字通り、未来を取り戻してもらった。それからしばらくして、天野はモデルを辞めた。法律を学び始め、霧島の事務所で働くようになった。最初は恩返しのつもりだった。いつか誰かを守れる人間になりたい。あの時、麻衣子が自分にしてくれたように。そう思った。そして、数年後。麻衣子は離婚しようとしていた。夫に裏切られ、流産し、それでも前を向こうとしていた。天野は何も言えなかった。彼女はまだ既婚者で、自分はただのパ
離婚成立から三か月後。弘人は重い足取りで役員会議室へ向かっていた。最近、この部屋へ入るのが嫌だった。会議室の空気は冷えている。以前のような余裕はなかった。役員たちの視線も厳しい。監査問題が尾を引いているからだ。「辻本元秘書の件ですが」資料が配られる。弘人は黙って目を通した。そこには短い記事が添付されていた。『元須藤グループ秘書の辻本彩花容疑者、業務上横領の疑いで逮捕』監査で発覚した不正経費処理。私的流用。刑事告訴。そして逮捕。会議室には重い沈黙が流れる。やがて一人の役員が口を開いた。「社長」弘人は顔を上げる。「管理責任について、どのようにお考えですか」厳しい声だった。弘人は答えられない。別の役員も続く。「株主総会で説明が必要になります」「社長秘書の不正です」「会社として無関係では済みません」弘人は拳を握った。反論できなかった。監査が始まった頃なら違ったかもしれない。だが今は分かる。見ようとしなかったのは自分だ。彩花を信頼していた。いや。信頼ではない。何も確認しなかっただけだ。それどころか、野放しにしていた。その方が自分にとっても都合がよかったから。会議は予定より長引いた。終わった頃には、弘人の肩にはさらに重い責任が乗せられていた。社長室へ戻る。机の上には新しい資料が積まれている。その一番上にあったのは広報部からの報告書だった。May大型プロジェクト第二弾&nb
離婚成立から一か月後。麻衣子は都内のカフェにいた。窓際の席。目の前には見慣れた顔が座っている。「お待たせしました」天野が少し慌てた様子で席につく。「十分早いわよ」麻衣子は笑った。相変わらず真面目だ。待ち合わせ時間の十分前には必ず来る。注文したコーヒーが運ばれてくる。二人は近況を話した。仕事の話。事務所の話。最近見た映画の話。他愛ない会話ばかりだ。気付けば、こうして会うことも増えていた。離婚協議が終わってからも。麻衣子と天野の関係は変わらなかった。いや。少しだけ変わったのかもしれない。以前より自然に笑うようになった。以前より気を遣わなくなった。そして何より。以前よりずっと気楽だった。「そういえば」天野が口を開く。珍しく落ち着かない様子だった。コーヒーカップを持ち上げては置き。また持ち上げる。麻衣子は吹き出した。「何?」「いえ……」「その反応は絶対何かあるわよね」天野は観念したように息を吐いた。そして背筋を伸ばす。まるで面接でも受けるような顔だった。「実は」「ええ」「お願いがありまして」麻衣子は思わず笑う。「何よ。そんな改まって」天野は数秒黙った。耳が少し赤い。緊張しているらしい。それが分かった瞬間、麻衣子は余計におかしくなった。「もし」天野がゆっくり言う。「もし僕が司法試験に受かったら」そこで一度言葉が止まる。「――僕と、付き合ってください」
休日の昼。麻衣子は駅前のカフェへ向かっていた。待ち合わせ相手は天野悠。離婚前なら少し気を遣っただろう。だが今は違う。友人と食事へ行く。それだけの話だった。店へ入ると、すでに天野が席についていた。麻衣子の姿を見つけると立ち上がる。「こんにちは」「待った?」「いえ。五分くらい前に来ただけです」相変わらず真面目だ。二人は向かい合って座る。注文を済ませると、天野がほっとしたように笑った。「こうして会うの、久しぶりですね」「そう?」麻衣子は首を傾げる。「離婚協議のたびに顔を合わせてた気がするけど」「それは仕事です」天野が苦笑した。「今日は仕事じゃないので」確かにそうだった。霧島の事務所。打ち合わせ。離婚協議。そういう場では何度も会っている。だが今日は違う。誰にも急かされない。時間を気にしなくていい。ただ食事をするためだけに会っている。料理が運ばれてくる。しばらくは他愛ない話が続いた。最近の仕事。流行っている店。共通の知人の話。気付けば自然に笑っている。「何だか顔色が良くなりましたね」天野がふとそう言った。麻衣子はスープを飲みながら笑う。「そうかしら」「そうですよ」天野は頷いた。「離婚協議が始まった頃は、正直かなり無理をされていたと思います」麻衣子は少しだけ考える。否定はできなかった。あの頃は毎日が必死だった。仕事を再開したばかり。離婚協議もある。弘人や彩花の問題もある。前を向いているつ
離婚届が受理されてから数日後。麻衣子は珍しく何の予定も入れていなかった。朝。目が覚めても急いで起きる必要がない。スマートフォンを確認する。仕事の連絡はいくつか来ているが、どれも急ぎではなかった。ベッドの上で大きく伸びをする。「……平和ね」思わず呟く。こんな朝はいつ以来だろう。結婚していた頃は、いつも何かに気を張っていた。弘人の予定。食事の準備。帰宅時間。機嫌。離婚を決意してからは離婚協議。仕事の再開。SNS。案件。気付けばずっと走り続けていた。スマートフォンが震える。画面を見る。天野だった。『今日はお休みですか?』麻衣子は吹き出した。『どうして分かったの?』すぐに返信が来る。『朝からSNSが静かだから』『珍しいなと思ったんです』麻衣子は笑う。確かにそうだった。最近は毎日のように何かしら発信している。『正解』『今日は何もない』『だからダラダラしてるの』送信する。すると。『それは良かったです』『少しは休んでください』まるで保護者みたいだ。年下の癖に。麻衣子は苦笑した。『あなたは?』『今日は休みです。おそろいですよ』麻衣子は画面を見つめる。おそろい、だなんて。少しだけ照れ臭い。昔なら。こういうやり取りをしているだけで罪悪感を覚えたかもしれない。既婚者だったから。誰かの妻だったから。だが今は違う。誰に遠慮する必要もない。窓の
「Mayさん、お疲れ様でした!」拍手が起こる。麻衣子は笑顔で頭を下げた。大型プロジェクトの発表会は大成功だった。予定時間を少し延長するほど会場は盛り上がり、企業側の担当者も満足そうな表情を浮かべている。控室へ戻ると、スタッフたちが次々と声を掛けてきた。「SNSの反応もすごいです」「トレンド入りしてますよ」「追加案件の問い合わせも来ています」麻衣子は苦笑した。「そんなにですか?」「そんなにです」担当者が力強く頷く。忙しい一日だった。だが疲労感は不思議と心地良い。自分の仕事が評価される。必要とされる。かつての麻衣子が欲しかったものが、今は自然に手の中にある。イベントが終わり、スタッフへ挨拶をして会場を出る。外はすっかり夕方になっていた。スマートフォンを確認する。仕事関係の連絡がいくつも届いている。その中に、一件だけ見慣れた名前があった。天野悠。『終わりましたか?』短いメッセージだった。麻衣子は思わず笑う。『今終わったところよ』そう返信する。すると、すぐに返事が来た。『お疲れ様でした』『近くにいるので、お祝いにご飯でもどうですか?』麻衣子は足を止めた。以前なら。誰かに誘われても、まず弘人の予定を考えていた。夕食はどうしよう。帰宅時間はどうしよう。そんなことばかり気にしていた。だが今は違う。誰の許可もいらない。誰に遠慮する必要もない。『いいわね』そう返信する。送信ボタンを押した瞬間。胸の奥が少しだけ軽くなった。駅前のカフェ。先に到着していた天野が
朝の陽光がカーテンの隙間から差し込む中、麻衣子はいつものように朝食の準備をしていた。下腹部の痛みはまだ完全に引いていない。でも、弘人の前に出るときはそんな弱さなど微塵も見せられない。それが「須藤弘人の妻」として三年間生きてきたルールだった。「おはようございます、弘人さん」麻衣子がコーヒーを淹れてテーブルに置くと、弘人はスマホをいじりながら生返事した。「ああ……」その視線は麻衣子ではなく、画面の中の誰かへ向けられている。通知音が連続して鳴り、弘人の口元が緩む。麻衣子は知っていた。相手は辻本彩花だ。弘人はコーヒーを一口飲むと、顔をしかめた。「味が薄いな。彩花の淹れてくれる
「おかえりなさい、弘人さん。お疲れ様でした」麻衣子は完璧な笑顔を浮かべて弘人を出迎えた。地味なエプロンを腰に巻き、眼鏡の奥の瞳はいつものように控えめだ。弘人はコートを麻衣子の手に乱暴に投げつけ、リビングのソファにどっかりと腰を下ろした。旅行の疲れなど微塵も感じさせない、いつもの冷たい表情。その首筋やシャツの襟には、彩花の甘ったるい香水の匂いが濃く染みついている。「ただいま。飯まだか?」一瞥もくれず、リモコンを手に取る。麻衣子は微笑みを崩さずに答えた。「ええ、今温めますね。今日は何がいいですか?」「なんでもいいよ。適当に……ったく」弘人はため息をつきながら、麻衣子をチラリ
家に帰り着いたのは、深夜を過ぎた頃だった。麻衣子は玄関のドアを静かに閉め、靴を脱ぐ動作すら途中で止めてしまった。下腹部にまだ残る鈍い痛みが、まるで体の一部のようにまとわりついている。でも、もう涙は出なかった。流産の激痛の中で流した涙は、すべて燃え尽きてしまったかのようだった。「ただいま……」誰もいない広い家に、自分の小さな声が虚しく響き渡る。弘人はまだ海外にいる。彩花と一緒に、あと何日か甘い時間を過ごすつもりなのだろう。麻衣子はリビングのソファに腰を下ろし、暗い部屋の中で天井を見つめた。結婚して三年。私はいつも完璧な妻を演じてきた。朝食を作り、シャツにアイロンをかけ、
痛みで視界がぼやける。白い天井が、ゆっくりと回っている気がした。麻衣子はベッドの上で唇を噛みしめ、両手でシーツを握りしめていた。腹の奥から這い上がってくる激痛が、息をすることすら許してくれない。「もう少し我慢してくださいね……」看護師の優しい声が遠く聞こえる。でも麻衣子には、ただの雑音にしか感じられなかった。結婚三年目。待ちに待った赤ちゃんだった。ついに陽性反応が出た日の夜、麻衣子は夫の弘人に報告しようと何度も電話をかけた。でも繋がらなかった。「今、急な出張で海外なんだ。悪いけど少し待っててくれ」弘人のLINEはいつも通り素っ気ないものだった。それでも麻衣子は嬉しく